2026年7月5日、武蔵野商工会館ゼロワンホールにて、講演会「『リベラル』ではない人のための憲法21条の話」を開催いたしました。



本講演会は、改憲・護憲といった政治的な立場からいったん距離を置き、憲法を「道具」として読み解き、使いこなすための知識を共有する場として企画しました。
インターネットやSNSの普及により、「表現の自由」は私たちの日常と切り離せないテーマになっています。一方で、この問題は政治的な立場と結びつけて語られやすく、憲法そのものを落ち着いて学ぶ機会は多くありません。今回は、そうした先入観をできるだけ脇に置き、市民が自分の言葉で考えるための入口をつくることを目指しました。
講師には、弁護士であり、『「リベラル」ではない人のための憲法のお話』の著者でもある堀新先生をお招きしました。また、本講演会の開催にあたっては、NPO法人うぐいすリボンにご協力いただきました。
憲法21条を「道具」として読む
講演ではまず、憲法21条が保障する「表現の自由」とは何か、そして「保障する」とはどういう意味なのかが丁寧に整理されました。
堀先生は、表現の自由は公権力による侵害や制限から自由を守るためのものであり、国家権力を縛る仕組みとして理解する必要があると説明されました。憲法は「国民を縛るもの」ではなく、まず公権力の側に制約を課すものだという基本的な構造を確認することで、議論の土台が共有されました。
また、誰が表現の自由の主体となるのかについても、具体例を交えて解説がありました。行政機関の広報活動と個人の表現活動は同じではないこと、一方で、拘置所にいる人であっても基本的人権は否定されないことなど、抽象的な権利論を現実の場面に引き寄せて考える時間となりました。
自由を制限するときに必要な考え方
続いて、表現の自由がどのような場合に制限され得るのかについて、公共の福祉、法令の明確性、検閲の禁止、事前差止めといった観点から説明がありました。
特に印象的だったのは、「公共の福祉」という言葉だけで自由を制限できるわけではない、という点です。自由が原則であり、規制は例外である以上、規制する側には、その目的が正当であること、手段が必要かつ相当であることを具体的に説明する責任があります。
また、刑罰や規制を定める法律が曖昧である場合、市民はどこまでが許されるのかを予測できず、表現活動を控えてしまうおそれがあります。こうした萎縮効果や、恣意的な取り締まりの危険性についても、表現の自由を考えるうえで重要な論点として示されました。
現代の論点へ
講演後半では、表現内容そのものを規制する「内容規制」と、時間・場所・方法などを規制する「内容中立規制」の違い、そして表現規制を考える際の判断枠組みについて説明がありました。
具体的なテーマとしては、わいせつ表現、ヘイトスピーチ、公的支援や公共施設の利用をめぐる問題などが取り上げられました。刑法175条のように古い規定が現在の憲法解釈とどのように整合するのか、ヘイトスピーチ規制ではどこまで定義を具体化し、限定する必要があるのか、といった点について、判例や条例を踏まえた解説がありました。
さらに、金融機関やカード会社による取引拒否、プラットフォーム企業による排除、政治家による圧力、業界の自主規制、SNS上の炎上など、従来の「公権力による直接の規制」だけでは捉えきれない現代的な課題にも話が及びました。
質疑応答と意見交換
質疑応答では、ヘイトスピーチを既存の法制度でどこまで扱えるのか、わいせつ罪の見直しの可能性、国旗損壊罪をめぐる問題、皇室制度と表現の自由、SNS上の炎上や「犬笛」のような現象など、多岐にわたる質問が寄せられました。
それぞれの質問に対して、堀先生からは、単純な賛否ではなく、どの主体が、どのような自由を、どのような形で制限されているのかを丁寧に分けて考えることの重要性が示されました。
開催を終えて
今回の講演会を通じて改めて感じたのは、表現の自由は特定の政治的立場だけのものではないということです。
「リベラル」かどうか、改憲か護憲かといったラベルから少し離れ、憲法を市民が使える道具として学ぶことは、立場の違う人同士が同じ社会で議論を続けるための土台になります。
表現の自由を守ることは、好きな表現だけを守ることではありません。自分にとって不快な表現、距離を置きたい表現、意見の異なる相手の表現をどう扱うのかという問いと向き合うことでもあります。その意味で、今回の講演は、表現の自由を感情論ではなく、制度や法の言葉で考えるための貴重な機会となりました。
ご参加いただいた皆様、ご講演いただいた堀新先生、開催にご協力いただいたNPO法人うぐいすリボン、そして運営にご協力いただいた関係者の皆様に、心より感謝申し上げます。